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フィリピンの歴史【episode 3】コモンウェルスとは? 太平洋戦争突入と日本軍の上陸

投稿日:2020-05-04 更新日:

今回のフィリピンの歴史
【episode 3】
『コモンウェルス』
と、太平洋戦争突入
と、、日本軍の上陸。

早速、今回の動画です!

  👇

 

目次


コモンウェルスの解説の前に、ざっくりと前回のおさらい。

 

16世紀後半より長きにわたり、搾取搾取のスペイン植民地であったフィリピン。

英雄達
《穏健派》のホセ・リサール
《強硬派》のボニファシオ
らによって革命、独立運動へ!

そして、二人亡きあと 後にフィリピン初代大統領となる アギナルド をアメリカ合衆国が後方支援。

スペインの支配から解放されたと思ったその矢先、、
アメリカによる裏工作により、まんまとフィリピンはアメリカの植民地へと向かう。

このときのアメリカとフィリピンによる《米比戦争》

フィリピン独立革命軍、アメリカ合衆国軍よりも、巻き込まれたフィリピンの非戦闘員が、少なくとも20万人、一説では100万人を超える犠牲を出す。
これは太平洋戦争中のフィリピン人の犠牲者に匹敵する数なんです。
各地でのゲリラ戦が残るも、とりあえずは米比戦争終結。
アメリカの植民地となって行くのです。

ただ、スペイン支配と違うのは、
合衆国議会で成立した《フィリピン組織法》に基づき、新たな政権は軍から 民間 へ!

総督以外の行政機関と閣僚のフィリピン人化が次々と進みます。

フィリピン議会も、上院、下院と現行のシステムに近づきました。

1905年日本が日露戦争で勝利の翌年
フィリピンの総督となっていたウィリアム・タフトは
(この数年後、アメリカ合衆国大統領となる)
日本へ訪れ『桂、タフト協定』を交わす。

「アメリカは朝鮮半島における日本の支配権を承認。
逆に日本はアメリカによるフィリピンの支配権を承認」しました。

まぁ、日本がフィリピンに手を出すなっ ってやつですね。

コモンウェルスの成立

で、コモンウェルスとは?
1935年 〜 1946年
このうち日本占領時を除く期間の
フィリピンの政治体制で、アメリカ自治連邦区としての
独立準備政府
のこと。

1934年3月
アメリカ議会において成立した、10年後の7月4日にフィリピンを独立させると言う
《フィリピン独立法》

(アメリカの独立記念日に合わしたのでしょうか?)

翌年1935年11月
《マニュエル・ケソン》がコモンウェルスの大統領に就任。

マニュエル・ケソン

今では 20ペソ札の肖像画でお馴染みですね!

16歳にして サント・トーマス大学法学部を中退しアギナルドの革命軍に参加。

その後弁護士活動、州知事に就任。

1907年第一回総選挙にて国会議員に。

1916年ジョーンズ法の成立に尽力を尽くし、その功績により上院議長に就任。

1935年新憲法下で コモンウェルス大統領に就任。

1937年タガログ語を国語と定めたことから《フィリピン語の父》と呼ばれています。


ケソン政権下ではアメリカ軍の ダグラスマッカーサーや、後に第34代アメリカ合衆国大統領となる

アイゼンハワー が派遣され、フィリピン軍も創設される。

実はこの時マッカーサーは既にアメリカでは退役軍人だったのですが、ケソン大統領のラブコールがあったようですね!

ただ、このフィリピン軍、、
計画では「あらゆる侵略に対抗できる自衛戦力を備える、、」


ってものだったのですが、、
財政問題、士官の不足などなどで
最終的に体制が全く整わないまま
太平洋戦争に突入することになります。

アメリカの植民地が進む中、マニラ市内は イントラムロス など旧市街を保存しつつ、市内近代化のインフラ整備も進められる。

アメリカ式の新しいシステム導入で、インフラ、政治体制などが整いつつあるも、いろいろな問題も、、

 モノカルチャー農作

アメリカへの輸出中心作物としての、さとうきび、マニラ麻などを《単作》で 集中的に生産をさせるもの。

アメリカの需要のある農作物だけを 、大量に安定して供給するものなのですが、あくまで 支配国側の都合。

現地の住民は食料の自給率を大きく失います。

また、急に作物を変える事で 伝統文化を失うことにもなり
大規模な田畑を生み出すための
森林伐採、焼畑農業に伴う環境の悪化。

天災や害虫発生によっての全滅のリスク、、
これらにより飢餓が増加して行きます。

「働けど裕福にはなれない、、」
小作農や労働者たちによって労働運動の組織化が進みます。

そして組織が合併し合い
《フィリピン共産党》
が勢力を拡大していく事に。

共産党は「非合法」としていたケソン大統領も この流れ、国民の不満は止められず
1937年10月には共産党を「合法化」
政権に一定の協力をしながらも、
農民、労働者の支持を得ながら勢力を拡大していきます。

そして、1941年12月

太平洋戦争

日本軍の真珠湾攻撃と共に「南方作戦」も開始。

イギリス領マレーと共にアメリカ領フィリピンにも日本軍は押し寄せます。

日本軍による《フィリピン作戦》


もう「桂、タフト協定」も、あったものではありません!

所詮は「極東のアジア人」
と日本を甘く見ていたマッカーサー率いる アメリカのフィリピン駐在軍に対して、初動の早かった日本軍は
クラーク基地、主力航空隊の大半
戦闘機100機以上を撃破。



その後も日本軍の上陸作戦の勢いは止まらず、阻止する水際作戦もことごとく破られる。

マッカーサーの敗因は、日本軍の過小評価と、、
フィリピン軍の準備、練習、予算不足でした。

翌年1942年3月16日 追い詰められマッカーサーは


I shall return
を残して、一旦オーストラリアへ引き揚げます。

日本軍 マニラ占領

日本軍の戦闘によりマニラが壊滅的となり、大虐殺が行われたのは、もう暫く先の話しとなります。

1941年12月26日 

戦争突入後、日本軍の速い侵攻に対し、ケソン大統領は
《マニラ無防備都市宣言》を発令

これは一種の 降伏 ですが、街の破壊も、多くの死者を出す事なく間逃れたのはこの判断によります。

この後も、マニラから離れた地域まで安全地帯を拡大し、大マニラ(Greater Manila) の法令を発布。

大マニラ市長には《ホルヘ・ヴァルガス》が就任。

その後のケソン大統領ですが、、
アメリカに亡命し、ワシントンにて亡命政府を樹立するも
1944年8月ニューヨークで持病の肺結核のためフィリピンに戻ることなくこの世を去ります。

大マニラを編成した数日後
1942年1月2日 日本軍はこれを《無血占領》



その後、ヴァルガスは、大マニラ市長の座に《レオン・ギント》を指名。

自らは、日本主導の
《フィリピン行政委員会》の議長となります。

マッカーサーが居なくなり、残ったアメリカ軍、フィリピン軍は次々と敗退。


そして4月

 バターン 死の行進

日本軍はバターン半島にも侵攻し、これを占領。


投降したアメリカ兵、フィリピン兵、そして多くの難民
その数、日本軍予想の2万5千人を大きく上回り

7万6千人

捕虜収容所に移動する際、予定をしていた鉄道、トラックが全く足りず
100キロ超える距離を徒歩での移動となる。

これが 後に《バターン死の行進》と言われます。

炎天下の下、戦闘で傷ついた者
マラリア、デング熱、赤痢にかかった者
そもそも、水と食料の枯渇

捕虜となった兵士難民 7万6千人のうちたどり着いたのは 5万4千人

この行進で、多くが病気、飢え、疲労そして日本軍の処刑などで死亡。

(実際は監視の日本兵は少なく、逃亡者も多くいた様です)

後の戦犯裁判にて、この「死の行進」責任者であった少将は有罪となり死刑に処されました。

 

ちょっと思い出

実は私がフィリピンに移住するしばらく前、今のパートナーに連れられてこの場所を訪れました。

「Mr.ITO、、、Deth March知ってるよね!

 それがこの場所なんだよ」

と言われましたが、、

恥ずかしながら、この時は全く知りませんでした😓

「ソルジャーが歩かされて、ここで多くの人が死んだ」

それを聞いて、、
(追いやられた日本軍が 死の行進をして命を落としたのかな?)

なんて勝手に思い、話しを流してしまいました。

その後調べてみて 逆 だった事

あの場所でそんなことがあったのかと驚きました。

多くのフィリピンの方はこの事をよく知ってますので、これはフィリピンに関わる者としては 覚えておきましょう!🧐



ちなみにバターンには、マルコス政権下で作られて、1度も稼働がされたことのない 原子力発電所 があります。


ミュージアムになっていると言う事でしたが
私が訪れた時は中に入れませんでした。

近くの海は本当に綺麗で環境は素晴らしかったのですが、、
人気が全くなく寂し〜い場所でした。

 

アメリカの完全撤退

日本軍がバターン半島を占領した
翌 5月には、アメリカ極東陸軍の全軍が降伏。

こうしてアメリカを排除されたフィリピンですが、政治的決定の多くは日本に委ねられていくのです。


はい、今回はここまで!

今回のキーワード
「コモンウェルス」はフィリピンが独立をする前提の《独立準備政府》

その大統領が マニュエル・ケソン でケソン市の由来でもあり、20ペソ札の人でもあり。

そして《バターン死の行進》の史実。



次回は太平洋戦争を乗り越えフィリピン《第二共和国》から《第三共和国》へ
そして《マルコス政権》へ!です。

こうご期待

度々、、今回の動画です

  👇

 

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