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フィリピンの歴史 フィリピン文化

フィリピンの歴史【episode 2】アメリカの植民地へ! &ボニファシオの生涯

投稿日:2020-05-01 更新日:

 ☝️動画はこちらから

、、ですが

※地名/ ⭕️ヌエバ エシハ ❌ヌエバ エハシ

 途中、肝心の ⭕️カティプナン ❌カプティナン

 の言い誤りがありました😭ので、、

 誤り、、じゃなかった、謝ります🙇🏻‍♂️

 

今回のフィリピンの歴史

【episode 2】は、、

スペイン植民地支配から アメリカ植民地時代へ です。

今回も、フィリピン人なら誰でも知っている英雄が登場します!

目次


スペイン植民地支配からの フィリピン独立革命は
『1896年革命』と『1898年革』の 2段階があり、、
そして『米比戦争』へと続きます。

順を追って行く前に、まずはこの革命の《キーパーソン》を二人紹介。

『アンドレス・ボニファシオ』

今やフィリピンで ボニファシオ と言えば
BGC ボニファシオ グローバルシティー!


私は日本から、初めてフィリピンに訪れる人がいると、まずここに連れて行き、今のフィリピンのイメージに驚いてもらう、、
そんな きれいな近未来都市ですね!

その名前の由来でもある ボニファシオ とは、、

リサールや 他の英雄達と違い、貧しく、家柄も低い家庭の生まれ。

マニラにある保険会社の事務員として働く一方で、多くの外国語を独学で身につけ、他国の文化の中でも『革命理論』に感銘を受ける。

リサールによる《ラ・リガ・フィリピナ》(フィリピン同盟) が結成されるとこれに参加。

そしてリサールの逮捕、流刑をきっかけに、フィリピン同盟が解体してすぐ
1892年 独立革命を目指す秘密結社『カティプナン』を
マニラ市トンド地区で創設。

カティプナンの意味は
ちょっと長いのですが、、
「母なる大地の息子達と娘たちによる もっと高貴にして敬愛されるべき会」の略。
フィリピンの方々には KKK のシンボルマークで知られています。



リサールによって作られた フィリピン同盟の主要メンバーは《知識階級》



非暴力改革を目指していたのですが
スペイン官憲の徹底的な弾圧を受けての解体。

元メンバーのボニファシオは
強行手段、武力闘争路線のもとで カビテ、バタンガス、ブラカン
ヌエバ エハシ、、などに支社を拡大。

1896年 カティプナン によるフィリピン独立闘争を開始していくのだが、その後悲劇が、、😢

『エミリオ・アギナルド』

父親が中華系メスティーソのエリート弁護士。
四男として生まれ、17歳にしてバランガイ首長、25歳にして町長の職を引き継ぐ 大地主。

1895年マニラに訪れた際にボニファシオと出会い、その場で カティプナンに入会。

翌年、カティプナンの武装蜂起をきっかけに、地盤と資金力のあるカビテで 独自の軍を編成。

次々スペイン軍に勝利し、カビテ州を植民地から解放するが、、

後にフィリピン初代大統領となりますが、何故 人気が今ひとつなのか?
解説は後ほど、、🧐

1896年革命

日本は日清戦争の直後ですね。

そこでちょいとマニアックなお話し、、
ボニファシオは秘密結社カプティナンの機関誌『独立』を創刊していましたが、この時スペインからの弾圧を避けるため同誌の発行を日本の横浜と偽装していたそうです。
そして、日本海軍の『金剛』に、、
これは大日本帝国海軍の『戦艦 金剛』ではなくて その前の代のコルベット艦。
日清戦争後、フィリピンに寄港していた コルベット金剛に、カティプナン メンバーが乗船していた!
艦長と会談し革命への援助を求めていましたそうです。
(実際の援助は、、
スペインにではなく、アメリカに配慮で無かったとか、、)

 

 武装蜂起

ボニファシオが中心となって結成された秘密結社カティプナンも、スペイン当局の弾圧を受け始め、焦ったボニファシオは8月30日に武装蜂起を開始。

本部のあるマニラにはスペイン軍も戦力を集中。
ボニファシオ革命軍は次々と苦戦を強いられる中、アギナルド革命軍は、地盤のある カビテ州で次々とスペイン軍に勝利、植民地を奪還。

これをみた スペイン当局はリサールを再逮捕し、銃殺刑に。



見せしめとしたこの処刑だったが、カティプナン メンバーにも 敬愛 されていた リサールの死は 革命軍をさらに活発化させることになっていきます。

 カティプナンの内部闘争

同時に下層階級を代表するボニファシオと、上層階級を代表とする アギナルド。
それぞれの立場上 対立をしていく事に。

  テヘロス会議

1897年 3月22日 カティプナン上層部による革命政府大統領の選挙が行われる。

改革後、市民の平等を求めるボニファシオにに対して、家柄、資産(権益)、そして戦果を持つ アギナルドは 146対80で勝利。

スペイン植民地支配 解放の目的は一緒でも、手にした権益を守りたいアギナルドと、出身、家柄に関係なく 平等を求める ボニファシオとの間には、交わることのできない壁がありました。

全権を手中に収めたアギナルドは
ボニファシオの離反を恐れ、この後に拘束。
5月10日 ボニファシオを兄弟とともに処刑をしてましまう。


英雄の意外な結末😢 でしたが、それでも アギナルドではなく、ボニファシオの誕生日 11月30日が 今ではフィリピンの 祝日/ナショナルホリデイ となっていますね。


ボニファシオが処刑をされた その後、スペイン軍は本国より兵力を増強され形成は逆転。

追い詰められたアギナルドは、スペイン提督と『平和協定』と言う名の裏取引
(身の安全と金品を受け取ったとの事)
一旦 香港に亡命。

しかしその一方で残った ボニファシオ派は独立を目指し、各地でゲリラ戦を継続します。

 1898年革命

4月、キューバ独立革命をきっかけとし、アメリカ合衆国とスペインの間で起きた 米西戦争。

香港に亡命中だったアギナルドは、アメリカ合衆国と独立援助の密約を取り付ける。



5月、マニラ湾海戦のアメリカ勝利を機に、アギナルドはフィリピンへ帰還。

本拠地であるカビテ州で独裁政権の樹立を宣言。



6月12日 には独立宣言を発し大統領を就任。



現在のフィリピン独立記念日となる日ですね!

この時 革命政府の首相に任命されたのが

《アポリナリオ・マビニ》

革命政府は アメリカ軍と連携し、8月中には ルソン中央部、南タガログ地区をスペイン支配から解放。
革命政府の支配下に置きます。

しかし徐々にアメリカ合衆国の本来の思惑が、、

 思惑とは?

フィリピンからスペインを駆逐しアジア市場への拠点を築く事。

つまりはアメリカによるフィリピンの植民地化。

表向きはスペイン軍対フィリピン革命軍。
8月13日 スペイン軍が駐在するマニラへ 革命軍が総攻撃すると、あっけなくスペイン軍は降参。

ただし 降参したのは革命軍に、ではなくアメリカ合衆国に対して。

米西戦争の平和条約である パリ条約により スペインはアメリカへ、フィリピンの植民地支配を2000万ドルで譲渡した。



要は、フィリピンの植民地支配権をアメリカが買取ったと言う訳ですね。

 

 米比戦争

1899年、スペイン軍は去ったものの、アメリカのとの協定を一方的に破られ、情勢は不安定な状況に。

そんな中、アギナルドはスペインからの独立を宣言。
1月22日、フィリピン人による

フィリピン第一共和国』が成立。

ただこの時 既にフィリピンの 統治権がスペインからアメリカ合衆国に譲渡されていた為、アメリカは 第一共和国を認めず。

共和国軍を 反乱軍 として鎮圧しようとしたため、2月に アメリカ兵によるフィリピン兵の射殺事件をきっかけに 米比戦争 に突入。

2月中にはマニラは完全にアメリカの手に落ちる。



アメリカ軍の圧倒的な武力により、4月にはブラカン侵攻、6月には将軍暗殺。


そして8月にはアメリカ本国より大規模部隊到着。

このときの司令官で後にフィリピン植民地総督となったのが

《アーサー・マッカーサー》

であり、彼の三男が 後に「shall I return」の

《ダグラス・マッカーサー》です。

ますます優勢なアメリカに対して、その行く手を阻んだのが アギナルドに処刑をされた ボニファシオの一派によるゲリラ戦でした。



1901年3月、圧倒的なアメリカ軍に捕らえられた アギナルドは、アメリカ支配への 忠誠 を約束。
これによりフィリピン第一共和国は崩壊。

アギナルドはアメリカのいいなりとなり、共和国軍の部隊にも停戦と降伏を命じます。



初代大統領とは言え、捕虜となり自らの保身
アギナルドがいまいち人気のない理由ですね、、

ちなみにこの アギナルドはどうなったか?と言うと、、
何と95歳直前まで 結構長生きをしています。

憎まれっ子世に、何とか、、じゃないですが、1935年には 再度大統領選に出馬もこの時は大敗。

第二次世界大戦後も、政治的セレモニーにも何度か顔を出し

1962年には日本からの皇太子夫婦をカビテの自宅に招いたりもしてますね。

 軍から民へ

同年1901年 7月、フィリピン政府はアメリカの軍政権から民の政権に移行します。

早々にアメリカに忠誠を誓った、親米フィリピン人を政府機構に登用して、有力者を取り込むことで、アメリカ統治体制の安定を図るものでした。

1902年7月4日 アメリカの独立記念日 ルーズベルトの演説の中、フィリピンの平定を宣言。



アメリカ合衆国議会で成立した、フィリピン組織法を法的根拠に、陸軍長官《ウィリアム タフト》の主導によってフィリピンの植民地化が進んでいきます。



ちなみにこのウィリアムタフト
4年後、アメリカ合衆国 第27代大統領となります!

ただ、このときのフィリピン『平定』はアメリカ側の宣言であり、
各地に散らばる反米ゲリラ部隊はまだ多数。
革命軍勢力を完全に鎮圧し、植民地支配体制を確立したのは 少し先の1910年になります。

 戦争の代償

米比戦争は 結果アメリカの武力鎮圧で幕を閉じますが、代償は
フィリピン革命軍の戦死者12,000人
アメリカ軍 4500人
フィリピンの非戦闘員は
何と 20万〜100万人 をも超えるともいわれます。

(色んな説がある様ですが、、)

とても大きなものでした。


ところで2018年12月にサマール島の教会へ【バランギガの鐘】を返還 のニュースを覚えてますでしょうか?


この鐘は 共和国軍が奇襲の合図に使ったものを米比戦争後、アメリカが戦利品として本国に持ち帰ったもので、歴史的遺産として返還されたものです。

 その後

1907年フィリピン組織法のもとでフィリピン議会が選出。

アメリカ軍は南部のムスリムに対しても戦争を続け、1915年にはスペインの植民地にもならなかった

スールー王国にもアメリカ合衆国の主権を認めさせ、フィリピン全土を平定。

1916年米国議会でジョーンズ法《フィリピン自治法》の可決。


この法律でフィリピンの将来の独立が宣言され、上院 下院の立法権を持つ議会の整備。

アメリカ総督以外の行政機構、閣僚のフィリピン人化が進む。

経済的にはアメリカフィリピン間の相互関税を免除して 自由貿易体制を確立。
さとうきびとマニラ麻を中心とした輸出拡大して行きます。



マニラ麻栽培のためダバオ周辺には日本人移民が増え、また教育の拡充を通して英語の普及が進む。


  はい! 

今回はここまでですが、、
またまた地名などにも未だに残る名前
ボニファシオ、アギナルド
マビニ、タフト が出てきました!

また サンミゲル将軍も実はマニラ戦で活躍した様ですが、、
フィリピンビールの帝王


サンミゲルとは関係ない模様ですね😅

(個人的に大好き❣️ですが)

では、度々、、

今回の動画となります🤓

   👇


次回はフィリピン 『コモンウェルス』と
世界大戦突入
と、、日本軍の上陸。



こうご期待です!

はい、私の方も
👇期待しております🙏🏻

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