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フィリピンの歴史 フィリピン文化

フィリピンの歴史【episodes 1】スペイン帝国の植民地時代と英雄『ホセ・リサール』の生涯

投稿日:4月 28, 2020 更新日:

前回の【episodes 0】フィリピンの基本情報と

原始 スペイン帝国の支配前夜

に続いての【episodes 1】

フィリピン スペイン帝国の植民地へ
と、フィリピン人なら誰でも知っている英雄

『ホセ・リサール』の生涯編です!

まずは動画です👇

 以下、文字起こしです👇

スペインによる侵略

前回のお話しと被りますが、フィリピンに到着した初のスペイン人は1521年のマゼラン率いるスペイン船団。

圧倒的な火器を用いて、部族長達を従服させ、キリスト教への改宗を強制して行きました。

その後マゼランはマクタンの英雄ラプラプに敗れましたが

もちろんスペインの攻勢は止まりません。

1543年スペイン船団がサーマル島、レイテ島に到着、次々と支配下にして行きます。



この島々に後にスペイン帝国王となるフェリペ皇太子にちなみ、ラス イスラス フィリピナス諸島と命名。
これがのちにフィリピンの国名由来となります。

1565年 《ミゲル ロペス デ レガスピ》遠征隊が、セブ島に到着しこれを占領。

フィリピンの植民地化とキリスト教への改宗基地を作り、セブ島はスペイン帝国の副王領となる。

レガスピはこの帰路にフィリピンからメキシコに向かう航路を発見。

この間でガレオン船による貿易を始める。

これが後に フィリピン文化 にも影響を与えていきます。

スペインにとってフィリピンは香料を採取する為の植民地化だったが、期待されたモノは見つからず、ただ 新たに見つかった航路によって、貿易中継点となり、マニラ ガレオン と呼ばれる大型帆船が建造され、栄えていく事になるのです。

 

1570年マニラの戦い

ファン デ サルセード率いるスペイン軍。

対するは スライマーン三世のマニラ王国。

激戦の末、マニラはスペインの手に落ち、翌年マニラはスペインより《市》の称号を与えられる。

そして、マニラ市を 植民地首都 として スペインによる征服を拡大して行くことになります。

皆さんよくご存知の、、

イントラムロス

スペイン語で「壁の内側」の意味のイタリア式要塞。

フィリピンの初代総督になっていたロペス デ レガスピ によって、1606年に完成。



8フィートの頑丈な厚み、22フィートの高い石壁に囲まれた、64ヘクタールの要塞。

(ちょっと進撃の巨人っぽいですが、、)

なぜこのような要塞が必要だったかは、中国海賊の襲撃から守るためだったとか。

スペイン人の 政治 軍事 宗教 の中心地として機能していました。

200年後 1762年に、マニラは一時的にイギリス軍に占領されるものの

(これもマニラの戦いって言うんですね)

マニラを植民地首都とした以降、約250年に渡り スペインによる支配が続く事になります。

 

カトリックへの改宗

スペイン人の征服者は、フィリピン原住民を分配され、税金や労働力の徴収の権利を、約束された代わりに
フィリピン原住民に対して 徹底したカトリックへの改宗、布教を行う義務が与えられた。


植民地化が進み、スペインからの入植者も増る一方で、フィリピン原住民たちは 移住地を借金の代わりに取り上げられ

また、カトリック信者となる事で、代々受け継がれた土地を教会に寄贈させられる者もいたそう。

未開の土地開墾を フィリピン原住民を労働力とし
押し進め、同時に輸出農産物を生産する
プランテーションの開発により
原住民を労役に使う大地主たちが地位を確立していきます。



民衆の多くはその低賃金労働者となり、、
その流れが、今現在のフィリピンを象徴する 格差の基盤 となっていくのですね、、



フィリピン国内でのスペイン支配が広がって行くと同時に
1578年、有力なイスラム国だった ブルネイ がスペインに敗れたことで、ますます イスラム勢力 の力が弱まります。

 

朱印船貿易

1592年には、豊臣秀吉によって 朱印船貿易 が行われ日本人がスペイン商人を相手とする通商が発展。

貿易に従事する多くの日本人が東南アジアにも移り住みフィリピンにもマニラに 日本人町 が作られました。



17世紀には1500人、最盛期には3000人にもなった様ですね!

 

メスティーソ(混血)

フィリピンは中国とのガレオン貿易 中継点と言うのもあり中国人の人口は2万人に達します。



急に増えた中国人に対して、何度かの排斥運動はあったものの、現地人女性と結婚して メスティーソ と呼ばれる混血の社会階層を築き上げて行きます。

中華系メスティーソはその後 19世紀のマニラ開港後、中国人移民奨励の影響もあり、新規に移住した中国人商人が 旧メスティーソを上回り、現在のメスティーソとなっていきます。

これは今もフィリピンの社会を象徴する(牛耳る?) 社会階級ですね、、

 

スペイン支配の終焉

スペインによるフィリピン植民地化は全土には及ばず、特に南部のホロ島、ミンダナオ島のムスリムはスペインに対して抵抗を続け
モロ戦争と呼ばれ 300年以上にわたり スペインとイスラム勢力との間の抗争が続けられました。



そして、スペインの長い支配も終わる時が来ます。

フィリピン独立のカリスマ

 ホセ・

リサール

(日本でもコミック化されたてます!)

スペインの支配に対する抵抗は 何度も繰り返されたが、規模が小さく 極地的なものだったので
すぐに鎮圧をされていました。

独立運動が本格的になるのは19世紀末 ホセ・リサール の活躍によります。

フィリピン人なら誰でも知っている 英雄 とは?

1861年6月19日ラグナ州 カランバ生まれ。


父親は4代目世代の華僑系メスティーソ。
母親は日本人とスペイン人のメスティーソ。

10人兄弟の7番目として生まれ
8歳にしてタガログ語とスペイン語を身に付け
9歳でBinanの学校に入学。

(って、、私のお家、、Binanなんですけど!
田舎ですが、今も緑が多く平和な良い街です)

16歳にしてマニラ アテネオ学院


現在のアテネオマニラ大学ですね!


ここで、農業学、土地の測量の技術を学び
母の病を機にサント トマス大学で医学も学びます。



その後21歳で、スペインのマドリード大学に留学し、医学と哲文学を学ぶ。



26歳までに

スペイン語 フランス語 イタリア語 

ポルトガル語 カタルーニャ語 中国語 

英語 ドイツ語 オランダ語 

スウェーデン語 ロシア語 ラテン語 

ギリシャ語 ヘブライ語 サンスクリット語

などなどを習得。

そして、中国語 日本語 タガログ語 ビサヤ語 イロカノ語の研究!

哲文学博士と医学士の学位を取得。

その後 パリ大学 ドイツ帝国の ハイデルベルク大学

などで引き続き医学と社会学を学ぶ。

彼の言葉に
「フィリピン人はスペイン人に劣るのではなく、足りないのはただ 教育の機会 だけだ」
が、ありますが、、

これは 支配者が支配される者に、教育の機会を与えない、、
無知な者ほど都合がいい
これを同胞に向けた メッセージ だったのでしょう。

(ゆとり教育って、何だったんだ、、?)

1887年26歳にしてフィリピンへ帰国。
医者として従事の中、小説を執筆。


『ノリ メ タンヘレ』意味は、私に触るな!

なんですね😅

この小説、言動が 反植民地的思想とスペイン支配層から問題にされ、身の危険を感じたリサールは27歳にして再び留学に向かいます。

目的地はヨーロッパでしたが
実はホセ リサール、日本にも来ていたのです!



1888年2月28日に横浜に到着
日本には数日滞在の予定でしたが、、

臼井勢似子 との出会いにより、日本文化に触れながら 2ヶ月間を過ごす事になります。

(💘)

日比谷公園にホセ・リサールの銅像があるのはご存知でしょうか?


私もフィリピン人の奥さんと出会った頃、日比谷公園でのデート中に この銅像を発見!

奥さんがずっと見ていたのを思い出しました。



その後サンフランシスコ行きの船に乗り込み 5月にロンドンへ到着。

イギリス ベルギー パリの図書館に通いながら古代史の研究と スペイン人による植民地化以前のフィリピンの歴史を研究。

翌年2月マドリードに滞在していた
フィリピン出身者とともに プロパガンダ運動 を行う。

1891年9月ベルギーにて2冊目の小説

『エル フィリブステリスモ』

を出版し、激しくスペインの支配を告発。


10月フィリピンへ帰国を試みるも

《反植民地主義 危険人物》と帰国は叶わず、香港にて眼科医を開業。



それでも翌年6月フィリピンへ帰国リサールは「ラ リガ フィリピナ」(フィリピン同盟)を組織すべく行動。



スペイン支配から 
暴力を用いず、穏便な改革を望むも、、
植民地 政府当局によって逮捕されてしまう。

7月ミンダナオ島へ流刑
その後本人の希望でもあるキューバの軍医着任が認められたが、ボニファシオ

らによって結成された秘密組織《カティプナン》 の独立闘争が始まると、スペイン官憲に逮捕され マニラに送還。

即座に軍法会議にかけられ


同年12月26日に銃殺刑が宣告。

そして12月30日フィリピン民衆が見守る中 35歳にして銃殺される。



リサールはその前夜まで、フィリピンのための本を執筆を 続けていたそうです。

銃殺が行われたその場所は今はリサールパークとして市民の憩の場となってます。



今回はここまでですが、、

この『スペイン植民地編』だけでも 地名、ストリート名でお馴染みの
レガスピ サルセド イントラムロス が出てきたり

意外や日本との関わり、今もフィリピンを牛耳る? スペイン系、中華系メスティーソの由来などが出て来ましたね!

そして、ホセ・リサールの天才であり、努力家であり、念願成就叶わぬ
悲劇、、

処刑された12月30日は Rizal Day として 祝日となっています!

その祝日には、スペインからフィリピンが独立をした きっかけを作った 英雄 の話しを思い出して頂ければと思います。

 度々😅 今回の 動画 はこちらです?

   👇

 

では、次回 の【episodes 2】は、、

なんと!こんどは アメリカが‼️

こうご期待! 

では今回も、、よろしくお願い致します🙏🏼

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